ゆめが浜 海浜公園

青い鳥が啄ばんでいったもの

Everyone is mania in general

毎日、服を選ぶのに時間をかけてる

今までもゆっくり選んでいたものの、まあこれでいっか、という感じで決めることの方が多かった。

最近は、自分がどう記憶されたいかを頭の隅に置いて、慎重にシャツやコートを手にとる傾向にある。

 

暗い色で固めるべきか、はたまた明度の高い色を組み合わせて軽やかな印象をまとうべきか?

グランジか、トラッドか、フューチャリスティックか?

最近は気の抜けたモードを意識してることが多い。

どんな姿が みんなにとって ”私らしい”  のだろう?

 

死が近づくといろんな決断に頓着するようになった、最後のマックかもしれないのにシェイクだけでいいのかとか。

 

でもそんなこと今更気にすべきじゃないのかもしれない。

今までだって、いつ死んだっておかしくないのに、様々な自己欺瞞をたしかに認めながら、それに目を瞑ってきたのだから。

私たちは、次の角を曲がった瞬間トラックにはねられる可能性があることを認めながら、しかし一日一日を大切にしたりしない。喫茶店の席に通され、「ここで最後に飲むコーヒーかもしれない」なんて逐一考えて注文したりしない。

これまで曖昧に下してきた決断は今更取り返しようがないのに、最後だけ後悔のないように取り繕おうなんて、見苦しい悪あがきではないか。

 

悪あがき。なんて最低な響きだろう。

私は昔から足掻くのが大嫌いだった。

確か幼稚園の運動会だったか、リレーで足をひっかけられて転んだ私は、勝負を放棄してよちよちと歩いていた。結果が見えてるのに、息を切らして走ることの意味がわからず、それはひどく馬鹿げたことのように思えた。

 

人生は長大な悪あがきだ。

私たちは大抵、自分たちに訪れる結末を、義務教育が始まるよりも前に知らされている。「どんでん返し」も「衝撃の結末」もなく、ただ「人は死ぬ」というオチがネタバレされる。死は人の意思の埒外にあるアプリオリなものだ。

 

私はネタバレされても楽しめるタイプだが、人生は映画とは違う。

人生は、観客ではなくプレイヤーとして、汗や血を流し、主体的に物語を駆動せねばならない。多くの人は、結果を知っていてなお走り続けることができるのだと思う。それはそれで、人間の尊いところだと思う。

あるいは子供を産む。

別の個体に願い(呪いと言ってもいい)を託すというわけだ。

しかし私にはこれを完走させれるほど、体力に自信がないし、モチベーションもない。

子供を産むなんてもってのほかだ。この社会は、人が十全に幸福な人生を送れるような場所とは感じられない。

 

前述の通り、私はなんでも簡単に諦めてしまえるきらいがある。

 10月末に出るOneohtrix Point Neverの新作が楽しみだ(そういえば、CDをもう注文してしまった)。HATRAの新しいコレクションが楽しみだ。ライブが見たい。何かを作りたいし、友人と交流するのは楽しい。

その上で、それらの全てを「まあいっか」と手放してしまえる。

しかし生きてる限り、そうした欲望は際限なく膨れ続けるだろう。

であるならば、身動きが取れなくなる前に、それがまだ軽いうちに、どこかに放り出してしまった方がいい。

 

抗うことのできない力によって中断されるくらいなら、自分の意思で終わりにしたい。

 

その選択が許されているのは、命というシステムに残された、最後の良心のように思える。

私たちは始まり方を選ぶことはできないが、終わり方を選ぶことはできるのだ。

 

グッドバイ

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